2007年12月2日星期日

判官贔屓

優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき、判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い)というようになった。

判官贔屓的读音
「判官贔屓」 の正しい読み方
http://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2005/03/_.html

「ユニークな語釈」 とやらで人気のある 『新明解国語辞典』 (三省堂) だが、私はかなり批判的である。マイクロソフトの辞書ソフト、"Book Shelf Basic" の国語辞書に採用されているのも、本当は気に入らない。

今日、また気に入らない語釈を発見してしまったので、ここでイチャモンをつけたい。

何が気に障ったのかというと、「判官贔屓」 である。これを 「ほうがんびいき」 の読みで引くと、なんと、"「はんがんびいき」の老人語" と出てくるのである。とんでもない乱暴な語釈である。

私は 「判官」 という独立した言葉なら、原則的に 「はんがん」 と読む。しかし、「判官贔屓」 という複合語に関しては、断じて 「ほうがんびいき」 と読む。「はんがんびいき」 とは絶対に読まない。「老人語」 とは何たる言いぐさだ。

そもそも、「判官贔屓」 というのは、同辞書が 「はんがんびいき」 の項で説明しているように、「兄頼朝に嫉視されて滅びた九郎判官源義経に対する同情の意」 から発している。この 「九郎判官源義経」 というのが勘所である。

古典芸能の世界では、普通は 「源」 は付けずに、「九郎判官義経」 と言い習わす。読みは、「くろうほうがんよしつね」 である。さらに 「ほうがん」と言ったら、それはもう準固有名詞みたいなもので、とりもなおさず、源義経のことなのである。それが 「お約束」 なのだ。

歌舞伎十八番の 「勧進帳」 などで、関守の富樫が 「判官殿にもなき人を・・・」 という台詞があるが、これを 「はんがんどのにもなきひとを」などと言ったら、それでもう、日本の歌舞伎文化はおしまいである。断じて 「ほうがん」 であって、「はんがん」 ではない。

一方、「仮名手本忠臣蔵」 で浅野内匠頭に擬せられる 「塩谷判官」 は、「えんやはんがん」 である。「えんやほうがん」 とは絶対にいわない。それは、「ほうがん」 と言えば、源義経以外にいないからである。原則的に、義経以外は 「はんがん」 なのだ。

だから、「判官」 は 「はんがん」 でも 「ほうがん」 でも OK だが、「判官贔屓」 となったら、昔から今に至るまで 「ほうがんびいき」 なのである。

きちんと日本の伝統文化を囓ってから辞書を編纂しろといいたいのである。

ちなみに、私は 「小股」 という言葉に関しても、同辞典にイチャモンをつけている (参照)。

[附記]

とにかく、日本人は昔から源義経が大のご贔屓で、芝居の登場人物人気投票をしたら、ダントツの一番人気だった。それで、歌舞伎にも 「義経物」 という一大ジャンルがあるぐらいである。

そんなことだから、昔の歌舞伎のドサ廻りでは、義経とは何の関係のない芝居でも、一度は義経が登場しないと、客が収まらないのである。

それで、ストーリーのちょっとした隙間に、まったく関係のない義経がちょっとだけ登場する。御殿の場面などで、登場人物が全部引けた時などに、奥の襖がスルスルっと開いて、一座の二枚目役者が登場する。義太夫の語りがうなる。

「そこにィ 出でたるゥ~う 九郎判官 (くろうほうがん) (ベベン、ベンベン)」

「くろうほうがん」 と聞けば、源義経に他ならないことは、日本の常識だから、もう客席はやんややんやの大喜び。声がかけまくられる。ちょっとした所作があって、客の気が済んだところで、義太夫は続ける。

「さしたるゥ 用事もなかりせばァ~あ、(ベベン、ベン) 次の間にとぞォ 消へ給ふ~ (ベベン、ベンベン)」

この語りに乗って、義経役者は次の間に消え、芝居は何事もなかったように、本来の筋に戻る。

「備考」

もちろん、「ほうがん」 の歴史的かなは、「はうぐゎん」 である。そして、「はんがん」 は 「はんぐゎん」 (念のため)。

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